2012年07月18日

『(日本人)』を読んで

『(日本人)』橘 玲(幻冬舎)を読みました。

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この本は、自分自身の「軸」について考えようと思って読みました。

特に「3・11東日本大震災と福島第一原発事故のあと、さまざまなひとたちが『日本』『日本人』について論じ」(p1)てきました。
そしてその論旨は、「日本の被災者は世界を感動させ、日本の政治は国民を絶望させた。」という一行で要約できる(p1)と、本書では言っています。この二種類の「日本人」は全く異なった意味で使われています。

また、山梨で地域を論じるとき、決まって「閉鎖的」という言葉が使われます。
しかし、この言葉は他県の田舎に行ったときには、どこでも自分を表現する言葉として使われることに気づきます。

「欧米は個人主義」、「日本は集団主義」という言葉も自明の理のように繰り返されますが、自治会やPTAでの私の経験を考えると、本当か?と思います。

日本人は「空気を読む」もそう。私がアメリカにいるとき、会議中は押し黙って、会議後に文句を言うアメリカ人にたくさん会いました。

選挙では「地縁」「血縁」に頼るべきだ、とよく先輩方に教わりましたが、半分以上が投票しない現在において、これも本当のところどうだろうかと思うわけです。

「グローバル」「ローカル」、「大きな政府」「小さな政府」、「自由」「平等」・・・・。


本書では、こういった言葉の「本当のところ」を一つ一つ論じ、定義づけています。

この社会にはたくさんの課題があります。原発も消費税もリニア建設もTPPも。
そしてそれに対し、賛成? 反対? と単純な解が問われます。
しかし、これは議論じゃないですよ。

やはり言葉を丁寧に定義することから、議論は始まるのだと思います。

この本を読んで、私にはまだ明確な「軸」がないなあ、と実感しています。
言葉の定義も本当に曖昧でした。
このままでは発言がぶれてしまう。まだまだ学習します。

笹本 貴之


posted by 笹本貴之 at 12:00| 孤独な読書

2012年07月16日

『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』を読んで

『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』 福島原発事故独立検証委員会著(ディスカヴァー)を読みました。

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東日本大震災の翌年、「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)は、独自に調査・検証をすすめていた東京電力福島原発事故について、この「調査・検証報告書」を発表しました。

この「独立検証委員会」とは、政府や自治体、東電などからは独立していて、彼らに遠慮なく厳しい批判ができる、ということです。

福島原発事故はたくさんの犠牲を出しました。いまもなお、解決できていない問題が沢山あります。
それでも、あえて一つだけ良かったことを挙げるとすれば、それは「これまで見えなかったこと」「見えないふりをしてきたこと」が明らかになって、議論の対象になってきたことではないか、と思うのです。

考えてみてください。2年前、「原発反対!」と言えたでしょうか?
そんなことより、「原発=クリーンエネルギー」という洗脳が、(私を含め)日本中で蔓延していたのではないでしょうか?
そう考えると、原発に「賛成」「反対」という議論ができることだけでも、進歩だと言わざるを得ません。

本書の成果は、福島原発事故を通して明確になった事実や課題をまとめて、タブーなく論点を提示していることだと思います。
単なる「原発の賛成/反対」議論を超えて、せっかく公然となった(平時を含む)日本の抱える問題を議論してゆくための、つまり福島原発事故を活かすための報告書です。

最終章の「福島第一原発事故の教訓」では、以下のような表題で考察をまとめています。いくつかの例を示して、私のまとめとします。

  • 人災―「備え」なき原子力過酷事故
    • (全電源喪失過酷事故への)備えを怠った背景には、原子力の安全文化を軽視してきた東京電力の経営体質と経営風土の問題が横たわっている。・・・(これを)許容した点では、原子力安全・保安院も、原子力安全委員会も責任は同じである。(p384)
    • SPEEDIもオフサイトセンター同様、結局は原発立地を維持し、住民の「安心」を買うための「見せ玉」にすぎなかったように見える。(p385)
  • 絶対安全神話の罠
    • 過酷事故に対する備えそのものが、住民の原子力発電に対する不安を引き起こすという、原子力をめぐる倒錯した絶対安全神話があった。(p385)
    • (原発の安全性向上のための)改良をすると、これまでの安全装置と安全規制が不十分だったのかと批判される恐れがあるし、それを認めることになりかねない。(p386)
  • 安全規制ガバナンスの欠如
    • 原発安全規制をめぐる規制官庁側と東電の関係は、実際は技術力、情報力、政治力に優る東電が優位に立っていた。危機にあたって、保安院は、東電に頼って対応せざるを得なかった。しかし、危機は、東電の能力の限界をはるかに超えていた。(p387)
  • 「国策民営」のあいまいさ
    • 原子力の安全規制や放射性廃棄物の処分、さらには過酷事故の対応に関しては、国が責任を持つ以外ない。(p388)
  • セキュリティーなき安全
    • 日本政府は国の力を統合できていない。資源の動員は縦割り行政の壁に阻まれ、情報は官僚機構のたこつぼの底に滞留している。国民を守るのにどこが最後に責任を持つのか、それを誰が決めるのか。(p391)
  • 危機管理とリーダーシップ
    • 上位機関のリーダーシップ不在が現場に負担としわ寄せを強いた事例。(p391)
    • 政府の危機管理は、ルーティーン(通常)の価値観に則って行動する官僚機構を、どれだけ早く緊急時対応に切り替えるか、がカギである。・・・危機の際の意思決定では、柔軟性、臨機応変、優先順位の明確化、余剰、トップダウンなどを優先させなければならない。(p394)
  • 復元力(レジリエンス)
    • 危機管理は、事故や災害の原因と、それらへの取り組みから教訓を導き出し、そこから新たな目標と方法に向けての国民的合意をつくることで完結する(女川原発や東海第二原発のように、過去の津波対策が功を奏した例もある)。最後は、国と組織と人々の復元力を高めるために行うのである。(p396)
 
笹本 貴之
posted by 笹本貴之 at 18:13| 孤独な読書